時計からラーメン二郎まで

自分の好きなこと 思想を書きます。

東京の住宅街を歩いて分かる事


東京って渋谷とか新宿とか大きい街でも中心部から少し離れるだけでそこには閑静な住宅街が広がっている。 最近はスマホで地図も見れるし情報が沢山あるので中心部から少し離れた隠れ家的なのが外国人にも人気なように思える。
そこで実際住宅街を歩いて分かることはとにかく狭い。商店街でもなんでもまず歩道もない事が多い。 東京自体23区はそんなに広い訳でもないのにそこに人が押し寄せている訳だから狭いっていうのも当然なのだが。。
やっぱり暮らしやすいとか住みやすいってなると確実に道は広い方が良い。千葉県の北西部 464沿いは東京の狭い道に比べたら相当快適だ。 北総線沿線は電車賃はバカみたいに高いがここだけは優れているし印西市が住みやすい街ランキングで上位に来るのも分かる。ただこれ車移動が基本の人は住みやすいって話だと思う。道は広いから当然運転はしやすい。あの東京の狭い路地を見てると車の運転はかなり大変だろうなと思う。 日本でコンパクトカーが流行るのも納得である。
ただ僕はデカイ車に乗りたいのだ。ハマーとかジープとかデカイアメ車に乗りたい。そもそも東京に住んだら車を置く所があるのか。 いやそれ以前に車が買えるだけの金があるのか。
とにかく東京は狭い。トイレも中々無い。 コンビニだって全然貸してくれない所もある。 イタズラされる事が多いんだろうな。。人が多ければそういう心無い奴も必ずいる。
それと千葉だからどこでも広いって訳じゃ無い。僕が良く草刈りに行く八千代の方の住宅街は狭くてイライラする。道が広い場所の傾向としては国道沿いかなと思う。住むとしたら埼玉とかの方も広くて快適なんじゃないかな。ただ殆どの人が東京の近くに住みたがるのは東京に何でもかんでも集まっているから。東京は便利だから。 狭いっていっても車を必要としない生活をするんだったら近くにスーパーでもあれば便利かもしれない。住めば都というようにゴチャゴチャした街並みも居心地が良くなるかもしれない。 実際僕は狭い道もそんなに嫌いじゃない。 ただそういう所を歩いていると こんなんじゃ車乗れないよなと思ってしまう。
結論としては東京は車を持ちにくいと思う。

youtubeでは飯を食う動画が多い


ユーチューバーというのも何かブームが1回過ぎた気がする。youtubeでは内容が全く無い動画が多い。それで良いのだがそれに比べて編集技術は相当な物だなと思う。 僕はyoutubeは編集が上手い人が生き残っていく世界だと思っている。どれだけ良い映像を撮っても編集でどう見せるかにかかっている。もっといえば編集が上手ければそれなりの映像になる訳だ。 視聴者っていうのは想像力豊かだから勝手に想像してくれる。 ただ自分達が面白くて映像を作るのが好きだからやっている人達も少なからずいる。
元々youtubeに動画を投稿する様な奴はそういう動画作りが好きで収入とかは考えてなかったんじゃないかな。 勿論金が入るならその方が良いし広告が付いているからってイライラする事もなくなった。 そもそも無料で見られるyoutubeに広告が付いてなかったらそれこそどうやって運営しているのかって訳だ。
動画を作るのが好きなんだなと思うのは昔のメグウィンだな。 それが今ではどうだろう。再生数も少ないし最近 出てきた料理を作ったり飯を食うだけの何の面白みもない連中に抜かされてしまった。 それは今のメグウィンが面白く無くなって企業案件とか飯を食ったりが多くてマンネリしてるのとライバルが多い事もあると思う。 今まではライバルがいなかったしやっぱりメグウィンは面白かった。youtubeという存在がまだ知られていない時代にバカみたいに体を張るなんてそうそう出来る事じゃない。
では何故飯を食う動画が多いのか再生数が多いのか 料理をするのが人気なのか。 もうそれは自分がやってる気になれるというのと食欲が刺激されるからだと思う。 焼肉を食うのが流行ったのもただ熱した鉄球を氷の上に乗せるのが流行ったのも全ては自分がそれをやってみたいけどやるには面倒だしいつも焼肉を食べれる訳ではないからだ。 ユーチューバーが楽だと思ってる奴もいるかもしれないが毎日動画は撮らなきゃいけないし面白い編集もしなくちゃいけない。 それが好きでやってる奴なんかは天職なんだろうが毎日そんなにネタがある訳はない。
そういう意味ではヒカキンはクソ面白くもないが毎日毎日動画を上げているのは凄えなと思う。 この先も変わらないと思うこれからのyoutubeの動画は 飯を食う。 料理をする。 実験をする。 試してみる。 下ネタ系 可愛い女の子 でさほど構成されているはずだ。
人間の三大欲求は食欲 睡眠欲 性欲なのでこれらが関係する動画は編集が上手かったりセンスがあれば伸びる事になっている。
僕は映像を作るのが好きではないのでユーチューバーになる事はないと思うが最近の小学生がyoutubeを見るのも分かる気がする。テレビよりも面白くて自分が見たい物を選択出来るからな。 これからどうなるかは分からないがyoutubeが無くなることはそうそう無いだろう。

おいしいラーメン二郎の条件

僕は結構ラーメン二郎 インスパイア系を食べてきた。youtubeでやってる人やブログなんかで見てるとめちゃくちゃ食べまくっている人もいてその人たちには及ばないけど ラーメン二郎を食べてきて分かった事がある。
おいしいラーメン二郎とはどういうものなのかという事である。もちろんこれには個人差があるし自分が美味いと思っても全然美味しくないという人もいる。 もうこれは常々思っているが豚の餌というのは分かった。 そんなに嫌いなら関わるなと思う。 ただ自分も食べていてあの二郎独特の何とも言えない気持ち悪さは客が作り出しているなと思う。 僕はラーメン二郎が気持ち悪いとは思っていない。 もっとラーメン二郎っていうのは自由であるべきなんだ。 不味いものは不味いし美味いものは美味い それは正直に言っていい。ただそれを食ってる奴をバカにするのだけはまあやめた方がいい。その人も自分が食べたいものを食べる自由があるからね。
僕が思うおいしい二郎の条件だがまず麺が硬めという事。 これはラーメンに限らずうどん そばでもそうなのだが麺が柔らかくていい事がなどあるのだろうか。 もちろん柔らかいのが好きな人がいてもいいと思うのだが、、二郎でも柔らかすぎる麺を食った事があるがあれはラーメンではなくきっと他の食い物だったのだろう。そう思うようにしている。 あと麺は粉っぽさがない事。 小麦粉感というか粉っぽい麺は好みじゃない。 これはあのハスミ(予測変換じゃ出てこない)でもそう感じた。あの店チャーシューはまあまあ美味い が麺が圧倒的に小麦粉を食ってる感じしかしなかった。あれでは麺ではなく粉を食ってる感じしかしなかった。新代田でも同じような麺だった。つまり僕はこの太すぎる麺にはついていけなかったのだ。
スープについても乳化とか非乳化というのがある。 どちらかといえば非乳化の方が好きかな。それで豚のダシが出ていれば美味い。化調が入ってる事などジロリアンなら誰だって分かってる。それに文句をつけるのは初めからおかしいということで。。そもそも化調とオーション 塩分でうまくしてるのが二郎なんだ。それが合わない人は最初から二郎には合わない。 粉っぽさがなくてスープに豚のダシが感じられてチャーシューも柔らかく味がしみていればおいしいラーメン二郎といえる。
ラーメン二郎は人気なだけに店主が体調を崩す事もあるみたいだ。二郎の掟として店主が厨房にいないで営業する事は出来ないみたいだしあれだけの行列なのだから相当忙しいだろう。
もうちょっと早く色んな店の二郎を食べておけば良かったと後悔している。 赤羽店は食べようと思って行った時にはもう休業状態でその後店主の体調が良くないという事で閉店となった。高田馬場店も同様に閉店してしまった。高田馬場は山芋が入っていたり崩し豚が入ってたりしてうまかったらしい。 僕は両方とも行こうとした時にはもう閉店してしまっていた。ラーメン二郎は一期一会なんだ。もう会えない二郎だってある。 一度食べただけで全てを理解する事は出来ない。物事は一つの方向から見ただけでは分からない事も多い。 ラーメン二郎にはまだまだ多くの魅力が隠されている。

人を殺してはいけない理由


人を殺しても罪に問われなかったら人は人を殺すのだろうか。 まず間違いなく殺人は増える。そして殺された人の家族とか仲間の復習も増えるだろう。 そうしてる内に人を殺した奴は殺されるという仕組みが出来上がる。 まあ行ってしまえばそれが法律なんだろう。 何故人を殺してはいけないかといえば もし人を殺しても良いという事になれば社会は成り立たないからだろう。 常にいつか殺されるんじゃないかという恐怖が付きまとう事になる。
人を殺してはいけない理由は沢山あるはずだ。まず自分が殺されるのが嫌だとか家族や大切な人達が殺されないためだとか そういう理由を上げていくとじゃあ家族もいなくて孤独で自分が死んでも良い人間なら人を殺しても良いのかという事になる。 もちろん表面的というか社会のルール 法律としてそんな事してはいけない。
しかし自分が死ぬ事も恐れない殺人鬼を止める事など出来るのだろうか。 多くの殺人鬼がそうであるように世の中 常識じゃ計れない狂ったやつらが沢山いる。 通常の人間ならそもそも人を殺す事など恐怖で出来ない。 もし今人を刺し殺せと言われてもさほどの人は刺す事など出来ないだろう。 人間にはそういう当たり前の感情とか人の痛みを思いやれる優しさみたいなのがあるはずなんだ。 人を殺してはいけない理由なんてない 法律では駄目なものは駄目といっているだけともいえる。 ただ人は人を殺しても耐えられるように出来てないはずなんだ。
だから戦争ってのは異常で まして銃や兵器で殺すとなったら命の重さが全然分からなくなる。
人々が当然のように持ってる優しさを全く持ってない人間がいるというのも事実であると思う。 それは洗脳されてたり自分なりの信条があって死ぬ事が全然怖くないやつらも含まれる。 そういう奴らを罰する事は出来る。
社会から隔離して安全にする。ただそいつらの犯罪を未然に防ぐ事など誰にも出来ない。それがテロって事だ。テロを未然に防ぐなんてほぼ無理だと思ってる。
よく動物は殺しても良いのか と怒る人もいるけどその答えとしては動物と人間の命の価値は違うというしかない。 youtubeで狩猟する動画を見るのだがそのコメント欄は結構色んな意見がある。 最近は動物が可哀想だろーというのは収束してきて生き物に感謝して食べようという流れになってきている気がする。 それはまあ良い事だと思うんだが僕は人間とそれ以外の生き物には明確に命の価値に差があると思っている。
実際に僕が思っているだけではなく全ての人間が無意識に命の価値に差をつけている。 それはしょうがない事である。 だって猫は可愛いしゴキブリは汚ねえもん。
ベジタリアンの人は沢山いると思うがその人たちと絶対合わねえなと思うのは お前らも命の差を付けているのに酷い殺され方をした動物は食べたくないとかいうのである。酷くても酷くなくても殺してる事に変わりはない。蚊だって何の感情もなく殺すだろう。
人は動物と違って人同士話し合える。だから普通の人は人を殺す事など出来ない。それを信じている。

ベジタリアンの異常性

僕は生まれてから肉を食べるという食文化だったからベジタリアンと聞くとどうしても理解できない。 世の中色々な考えがありそれを全て理解しろという風が無理なのでベジタリアンが普通だと考えてる人がいても別にどうという事はない。 多分あちら側からみたら生き物を殺し肉を食べてる人達 (日本では大半じゃねえかな)の方が残酷で異常に見える事だろう。だからといって食肉工場でデモを起こすタイプのベジタリアンは共存していくつもりがないと見える。僕はベジタリアンを異常だと思ってるし実際その事について話し合っても互いに理解しあえる訳がない。食の事以外だったら話が合う人もいるかもしれない。 今は食の話という事で。。
互いに理解しあえない事を分かっているからこそベジタリアンを潰そうとなんてしない。お互いほっとけばいいものを。全てのベジタリアンではないが頭のおかしい奴多いだろベジタリアンの中には。
僕が唯一理解出来るタイプのベジタリアンは体調の面で肉や魚を食べないという事だ。食べると気持ち悪くなったり体に異常が出るならそれは食べない方が良いだろうな。 それ以外の理由で食べないという人たちは自分の意思で食べないという事だよな。自分の考えなのか宗教上の理由なのか体調が良くなるからそうしてるのか。 理解できないからといって憎しみ合うべきでは無いとは思っている。
1番多いのは生き物を殺したくないってやつだろうな。宗教上の理由ってのも大半はそこに入ってくると思う。僕は高校がキリスト系の学校のだったんだけど聖書のなかにも自分が良いなと思う事もあった。だけど聖書に書いてあるからってそれが正解っていうのはなっとく出来なかった。理由もなく書いてあるからってだけなのが宗教なんだろうな。だから0か100かではないっていう言葉は結構好きだったな。
キリスト教の話なんかどうでもいいわけで生き物を殺したくないから肉や魚を食べない奴が多いけど人間生きてる限り何かしらの生命を奪って生きてるんだよ。それを否定する事は出来ないはず。野菜が生きてるかどうかは分からないがそこに人間がいる限り食わなければ生きてはいけない。野菜があればそこには虫だっている。無意識のうち気づかないうちに虫だって殺してるはずだ。 そもそも何故肉や魚 野菜 を分けたりフルーツは良かったり 卵は良かったりするのだろう。リンゴはリンゴを取ってもリンゴの木は死なないから良いらしい。卵はまだ生き物じゃないから良いらしい。完全なヴィーガンは卵も駄目だけど。 そう何故食べても良いものと食べては駄目なものを分けているかというとそこに命の価値を勝手につけてるんだ。牛はかわいそうだから殺しちゃだめでネズミとか虫とかは殺しても良いわけだ。 僕自身命の価値を人が付けるのはこれは自然な事だと思ってる。でなければ何故人は人を殺してはいけないのかという状況になってしまう。牛は殺しても人を殺してはいけない理由はそれは牛と人の命では価値が全く違うからって事を認めざるを得ないだろう。
そう考えるとベジタリアンが食べられるものと食べられないものを分けているのも人間的に自然な事なのかもしれない。

野郎ラーメンについて

野郎ラーメン ラーメン二郎が好きな人なら名前を聞いた事があるだろう。いわゆるインスパイア系というやつなのだがこの前 久しぶに食って見たところ衝撃的にうまくなかったんだ。不味くはないがうまくない。 いや正直に言って俺が好きな荻窪 小岩の二郎に比べたら話にならない。 まずかったんだ。もっと前に秋葉原で食べた時にはこんなにまずいとは思わなかった。 その時の作る人や 自分の味覚の変化などは当然あるとは思う。 それにしてももう食わねえなと思った。 あれが好きな人も世の中にはいると思うしそれは良い事だと思う。ただ俺がまずいと思ったらそらはまずい訳だ。 美味しいまずいなんて個人の価値観でそもそも味っていうのは究極的に個人の意見なんだ。 それを二郎だからってまずいものはまずい。俺も亀戸は口に合わなかった。麺が柔らかすぎるんだよ。
まあ二郎っていうのは万人受けする食い物ではない。二郎好き ジロリアンの中でも意見が分かれそうだ。 その中で自分が好きな店舗を探していくのも楽しいだろう。
そこで言いたいのは自分の意見ははっきり言って良いってことだ。そして二郎系の店や二郎を1店舗食っただけで二郎という店の全てを判断しないで欲しい。 物事の本質は1度だけでは分からない事もある。例えばコップだって上から見るか横から見るかで全然世界は違うんだから。
合わない人は無理に食べる必要はない。大体店員は偉そうだし店は狭いし汚いしであんまり良さそうには思えない。それでもいつか出会える究極の一杯の為に二郎の旅を続けるのも悪くないんじゃないかな。


とりあえず野郎ラーメンは不味かった。

モテキの映画


モテキの映画が公開されたのは2011年 もう6年も前なんだ。 そんなに時間が経っていたのかってぐらい最近の事のように思える。 この映画は何回も見ているし 内容も頭に入ってしまっている。 普通 原作が漫画でそれが実写化するとなると実写のイメージが違うとかで嫌がる人も多いと思う。 ただ僕の場合は原作よりも先に映画を見ているし その後にドラマ 原作を読むという完全に流れと逆行している。
ただ森山未來は完全に主人公だったと思う。 というか藤本幸世は森山未來以外にありえない。 そう思うほど役に合っていた。役者っていうのは仕事とはいえこれほどまでに演じきれるのかって驚いたのを覚えている。
6年も前だと今とはだいぶ状況が違うように思う。あの時はまだ進撃の巨人はそんなに有名じゃなかった。だって幸世が進撃の巨人知ってるの?こんなにマイナーな漫画なのに俺と話したいんだよが合うぞみたいな。。今進撃の巨人知らない人いるかな。 ほとんどいないと思う。 この6年ですごい有名になったんだよな。
あとこの映画では長澤まさみがとんでもなく可愛かった。 今の長澤まさみではないし昔の長澤まさみではない。 他の女優でも出来ない。
僕は常々思うのだけれど役者も人間な訳で歳を取る。その時の映画やドラマはその時にしか取れないということになる。 だからこそ作品に価値が生まれるんじゃないかな。 何度もやり直せたら何の意味も生まれない。人間だって不老不死になってしまえば人生の意味も価値も無くなってしまうんじゃないだろうか。
2011年当時映画を見た中学生の僕はこれからはSNSの時代が来ると思った。 実際思ったというより後からの記憶のこじつけかもしれない。 だけど当時スマホを持っている人もいたがガラケーも多いという状況だったと思う。物語でみゆきと出会うのもTwitterからだったしSNSをメインに描いていると思う。 これからはスーツきて仕事するばかりではなくカジュアルな服装で仕事をする人もどんどん増えていくはずだろう。そう確信した。 僕自身スーツは好きだけど着るのは嫌いというのはこの時から始まったのかな。。もしかしたらもうちょっと後のような気もするが。
色んな意味でモテキの映画っていうのはこれからの時代を予見していた気がする。まあほとんど時代の流れは決まっていたからその通りになる訳だけどそれでも凄いと思う。
そういえばモテキのドラマ版では幸世は途中までガラケーだった気がする。なんだか似合わねえなとおもうのではある。