時計からラーメン二郎まで

自分の好きなこと 思想を書きます。

動物を笑顔で殺してはいけないのか


人が生きるには食べ物を食べなければならない。
動物でも植物でも他の命を頂いている。

他の生き物の犠牲なしには人は生きていく事は出来ないのだ。

その事は大体の人が同じような認識で良いと思うのだが問題は動物を殺す時に笑顔でいて良いのか悪いのかということだ。

もちろん僕もむやみやたらに動物を殺したり虐待してはいけないと思っている。

畜産を仕事としている人はもう仕事なので楽しんで殺しているということはないと思う。

狩猟などしている人が動物を殺す時に笑顔では駄目なのだろうか。

よくそういう動画を見るのだがコメントには生き物を殺しているのだからもっと感謝をしろとか笑顔でやるなというのを見る。

これ結構難しい問題で獲物を仕留めたら誰だって嬉しいと思う。

それ自体悪い事ではないしやる人は法律にのっとってやっているのでとやかく言われる事もないのだ。

ただ肉をどれだけ取れば良いとかそういうのは明確に決められているわけではない。

またそこで全部 肉取ってないじゃないかというコメントがつく。

それ自体正論のような気もするが何か違和感を感じる。

笑顔でも真剣でも殺している事に変わりはない。

笑顔ではいけないというのは逆にいうと真剣であれば殺す事が許されているというようにも見えてしまう。

許すも許さないもなく本来殺されたい動物なんていないはずなのだが人間が勝手に殺して良い動物と殺してはいけない動物を分けているということでもある。


例えば蚊を殺したり蟻を殺したりしても文句をいう人はいないと思う。

魚を釣っていても何か言う人は殆どいない。

それが大きい動物になると可哀想と言われるのだ。

それはやっぱりどれだけ人に近いかということで判断されている。

つまり人間から見れば命の価値というのは人間に近いほど高く人間から遠い程低くなっている。

もうこれは仕方がない。
こういうものなのだ。
誰もこれを違うという事は出来ない。

ベジタリアンだって無意識に命に価値をつけているのだ。

僕は普通の狩猟だったら笑顔でも何も感じなかったが食べるためのものではない狩猟では何か違和感を感じた。

いわゆるトロフィーハンティングというやつだ。

要するに僕は動物を食べるか食べないかで残酷か残酷でないかを決めているようだ。

ただそれが残酷だと言っても人間は家畜や動物実験でもっと酷いことをやっている。

自分が関わってないだけで薬だって安全に使えるのは動物実験をしているからなのだ。

笑顔ではいけないという人たちは自分は数々の犠牲の上に成り立った生活をしているのに実際にやる人にはやるなという。

そもそも肉を食う時に笑顔で楽しく食う人が殆どではないだろうか。

それで笑顔で殺すなとか動物実験で安全が証明された薬を飲んでいるのに動物を殺すなというのは何ともおかしな話だ。

実際には生活の中で動物を殺して成り立ってる生活なのにそれが直接的ではないから罪悪感を感じないように出来ている。

どの動物も殺されたくて殺されている動物はいない。
この事を忘れてはいけない。