時計からラーメン二郎まで

自分の好きなこと 思想を書きます。

1つのコンテンツが終わる時


物事にはいつか終わるけれどそれが長く続いたもの程終わる時には悲しい気持ちになるものだ。

1度頂点にたったとしても時代に適応しなければやがて廃れていくだろう。

時代が変われば何が淘汰されるか分からない。

AIの出現により必要の無くなる職業は沢山あるだろう。

何と時計修理も将来なくなるであろう職業だった。

今から目指してる自分はどうなるのだろうという感じだが。。



今回そんな事よりも今1つのコンテンツが終わろうとしているという現実がある。

何のことだか分かるだろうか。

そうMEGWIN TV の事だ。

今の小学生にはMEGWINは分かるだろうか。

分かる人は分かると思うが元祖ユーチューバーというべき人だ。

この人がいなければユーチューバーという職業もなかっただろう。

この人がやらなくても誰かがやってたから凄くないと言ってる人もいるけどその誰かがMEGWINなのだから凄いことは凄い。

10年以上動画を作り続けている事も簡単に出来る事ではないだろう。

ただ1つ言える事は今 全く面白くないという事だけだ。

人は変わり続けるし時代も求めるものが変わってきている。

昔のMEGWINが面白かったのは単にショートコントが時代に合っただけのことなんだ。

ファンだから言わせてもらうとMEGWINの人気が落ちたのは周りにライバルが増えすぎたからだと思う。



つまり最初はライバルがいなかったから何をしてもヒットした。

それでもyoutube初期の職業にもなってない時からやっている事実は凄いのだけれどMEGWIN自身にユーチューバーとしての才能はそこまで無いのではないだろうか。


何より喋りが上手くなければならない。

そこそこ喋れるけれど今の最新の動画を見るとただ勢いで押し切るだけの今時流行らないようなものだった。

昔はもっと企画力もあったはずだ。

今の他のユーチューバーがよくやってるプレゼンをしたり街行く女の人に下衆な質問をするのはもうウンザリだ。

そういうのが人気なのは分かる。

MEGWINはそういうのをやる人ではないと思ってた。

だけどこないだ見たら下衆な質問するやつをやっていてかなりガッカリした。

もうこのままやっていてもしょうがないっていうのは自身で言ってたことだし百万人行かなかったら潔く辞めて欲しい。

1つのコンテンツが終わる時が来たのだ。

身長が低いと悩む人へ


日本人の平均身長は成人男性で171㎝ぐらい。

これを高いと見るか低いと見るかは人それぞれ

この身長より低ければ平均は高いと思うしこの身長より高ければ平均は低いと思う。

もちろん僕はこの平均身長は高いなと思った。何故なら自分の身長が162㎝ほどだからだ。結構女の人に抜かれる事も多いし舐められる事も多い。

その証拠によく道を聞かれる事が多い。

優しいと思われてるなら良いのだけれど人は自分より強いと思う人にはわざわざ接触するような事はないと思ってる。

ただ実際にこの身長だからといって苦労する事も無いし何より変えられない事なので悩むだけ無駄というのもある。

そこで背が低いとかで悩んでいる人に言いたい事がある。

特に小・中学生で悩んでいてこれを見ている人には今だけの問題だと言いたい。

デカイ事が正義だった小・中学生時代

もしこれを見てそんな訳ないじゃんとか思った人は恐らく背の順で前の方ではなかっただろう。


少なくとも僕が感じてた事だが子供のうちは成長しているって事が何よりも褒められる事だった。


教師も背が高い人の方が良いんだななんて勝手に思ってたような気がする。

生徒同士でもあれぐらいの年齢だと社会性などというものは完全に欠落しており力が強いか話しが上手いやつが1番だった時代だ。


ただ不思議とイジメのような事はなかった。

同級生たちは皆んなどこまでだったらやってよくて これ以上は駄目だって事を良く分かっていたし絶妙なパワーバランスの上に成り立っていたのだと今になって分かる。

高校時代

高校生の時を思い出して見ると背が低いからといって何かあった事はなかった。

それは何故かというと中学と違って同級生は仲の良いやつ以外は他人だったからだ。

高校生にもなるともう大人なのか分からないけど他人と喧嘩したりぶつかったりする程元気もなかったし損するだけだって分かってたようだ。

高校も卒業すると身長の高い低いで勝敗がつくことなど無い。

スポーツ選手になるとかモデルを目指している人なら別だがそれ以外の人は何の影響もない。

逆に言うとモデルになりたい人は背が低いとなれない訳だが。。

喧嘩したい人はデカイ方が良いだろうがいい年して喧嘩自慢は本当に可哀想な人だなと思う。

喧嘩は何にも生み出さない。

ただただ自分が損するだけの事である。

ただ一つ困る事

背が低くても困る事は無いと言ってきたが一つ困る事がある。

それは女の人から敬遠されると言う事だ。

世の中身長が170以上はないと嫌だという女が一定数いる事は確かだ。

今から身長を伸ばす事は不可能なので背が低くても良いという人を見つける訳だが何だか悔しい気持ちである。

僕自身何故背が高い方が良いかっていうのは分かっている。

何故なら背が高い方が生物として優れているからだ。

優秀な遺伝子を残したいというのは本能に組み込まれており自然な事ではある。

自分は親が言うにはそんなにブサイクではないという。

自分でも中の中ぐらいだろうと思いたい。

自分よりただ背が高いってだけで俺の方がいけてると思ってもモテてたりするとかなり悔しい。

これが現実なのかと思う事は多い。

コミュ力を鍛えろとか無責任な事をいう輩は多いがコミュ力があればこんな事にはなっていない。

そもそも論なのである。

あとよく筋トレしろとか筋肉で全てを解決するっていう人が流行ってるが自分はそうとは思わない。

筋肉は自然につくだけで十分なのだ。

何より筋肉で全ては解決する事は出来ない。

人は生まれた時から決まっている事も多い。

その内の一つが身長だ。

不老不死が実現した世の中


人間はいつか死ぬ。

生物はいつか死ぬし それが自然の摂理だろう。

医療技術が発達していく世の中で寿命はどんどん伸びてきたのだが果たして不老不死が実現する世の中は訪れるのだろうか。

人類の永遠の夢

人類の永遠の夢というように人類は不老不死を目指しているみたいだ。

皆んなどうだろう。

永遠の命など欲しいだろうか。

僕はずっと生き続けたいとは思わない。
やっぱり限りがあるからこそ人生も輝くと思う。

そもそもずっと生きていたら退屈で仕方がない。

人生も若い時と歳をとった時があるから変化があって楽しいだろう。

不老不死が実現するとしたら

不老不死を実現するとしたら何が問題になるだろうか。

まず脳が100年 150年とか耐えられるだろうか。

記憶の量も限りがあるのでまず脳の容量が持たなくなる。

肉体はどうだろうか。

遺伝子をいじって老化を止めたりすることが出来るようになるだろうか。

それが出来るとしても限界は来るはずだ。

だから僕は不老不死と言っても実現するには肉体はロボットの体で脳も記憶をコピーしただけの機械になるんじゃないかと思う。

これはクローン人間の話でもそうだったがそれはもはや自分といえるのだろうか。

分裂を繰り返すクラゲなんかは寿命という概念がないみたいでどんどん自分の分身が出来ていく。

人間だとしたら自分の分身が出来て今の自分が死んでも新しい自分が生きていたらそれは生きていると言えるのだろうか。

それはもう別人だろうと思う。

不老不死が実現すると困る事もある。

地球が人間で埋め尽くされる事になるのだ。

死なないということは人が生まれてくる限りどんどん増えていくという事なのだ。

そうなると食料も無くなる。

僕自身ずっと生きていたいとは思わない。

死ぬのが自然なんだし不老不死が実現して欲しいとは思わない。

テロは防げるのか


東京はうんざりするほど人が多い。

外国人が増えてきたと思う。
中でも多分中国人が多い。 日本人から見れば中国人 韓国人は何故かすぐ分かる。

2020年のオリンピックではますます東京に世界中から人が集まるだろう。

夏のイベントでも人がたくさん集まるところでは注意しなければならない事がある。

それはテロである。

日本はテロを防ぐ事が出来るのだろうか。

結論から言えばテロを完全に防ぐ事は出来ない。

オリンピックとか大規模なイベントでは警備も厳重になるのでまだ良いがそこら辺でやっている祭りなどは危険があると思う。

テロを起こす方法なんていくらでもある。
今の時代 爆弾は簡単に作れるみたいだしそれをいちいちチェックするわけにもいかない。

持ち込むチャンスは無限にある。

トラックが突っ込んで来るかもしれないしドローンで攻撃する事だって出来る。

元々ドローンは軍事目的で作られた物なので攻撃するというのは本来の使い方なのかもしれない。

自分が考えたものではないが知り合いが言っていた恐ろしいテロの方法がある。

人混みなどで放水車でガソリンを撒く。

それに火をつけるともう大変な事になるという訳だ。

こんな方法だったらどうやって防ぐというのだろう。

テロには屈しない 。 政府はそういうスタンスでやっていくだろう。

やられればやり返す。
それが良い事だとは思わないが日本人がやられたら黙って見過ごす事など出来ない。

それが愛国心ってものだろう。

何故か今のテレビや新聞はやたらと愛国心を持つ事が悪いかのように報道するように思えてならない。

報復には報復では平和にはならないかもしれない。

だから自分の所で我慢する事が大切だという意見もある。

なるほど。 それが出来れば平和になるだろう。

だがどうだろう。 武力がなければ平和などあり得ない。

自分の所で我慢する事ばかりしていればいつの間にか都合の良いようにされてしまうだろう。

それが現実なのだ。 人同士が分かり合えないように国同士も分かり合えない事も多い。

話が通じる相手なら良いが全く話にならない相手もいる。

僕は今まで個人同士で分かり合えないからそれの延長で国同士も分かり合えるはずがないと思っていた。

ただ逆の面もあるのかもしれないと思っている。

日本人と中国人 韓国人 で個人同士なら分かり合えるやつ分かり合えないやつ 色々いると思うが 個人同士ならなんとかなる事もあるかもしれない。

だけど全体的にみて日本人と中国人 韓国人は分かり合う事など不可能だ。

どちらにも憎しみが多すぎる。
そしてこれをゼロにする事は出来ない。

思えば人類の歴史とは争いの歴史というようにこうなってしまうのかしれない。

どんな状況であっても言える事だが人を殺す事が正義になってはいけない。

それぞれの正義というが人を殺すのは正義ではないだろう。

だけど復習をするのが正義なのか正義ではないのかは分からない。

仲間がやられてやり返すのが悪いとは思えないのだ。

動物を笑顔で殺してはいけないのか


人が生きるには食べ物を食べなければならない。
動物でも植物でも他の命を頂いている。

他の生き物の犠牲なしには人は生きていく事は出来ないのだ。

その事は大体の人が同じような認識で良いと思うのだが問題は動物を殺す時に笑顔でいて良いのか悪いのかということだ。

もちろん僕もむやみやたらに動物を殺したり虐待してはいけないと思っている。

畜産を仕事としている人はもう仕事なので楽しんで殺しているということはないと思う。

狩猟などしている人が動物を殺す時に笑顔では駄目なのだろうか。

よくそういう動画を見るのだがコメントには生き物を殺しているのだからもっと感謝をしろとか笑顔でやるなというのを見る。

これ結構難しい問題で獲物を仕留めたら誰だって嬉しいと思う。

それ自体悪い事ではないしやる人は法律にのっとってやっているのでとやかく言われる事もないのだ。

ただ肉をどれだけ取れば良いとかそういうのは明確に決められているわけではない。

またそこで全部 肉取ってないじゃないかというコメントがつく。

それ自体正論のような気もするが何か違和感を感じる。

笑顔でも真剣でも殺している事に変わりはない。

笑顔ではいけないというのは逆にいうと真剣であれば殺す事が許されているというようにも見えてしまう。

許すも許さないもなく本来殺されたい動物なんていないはずなのだが人間が勝手に殺して良い動物と殺してはいけない動物を分けているということでもある。


例えば蚊を殺したり蟻を殺したりしても文句をいう人はいないと思う。

魚を釣っていても何か言う人は殆どいない。

それが大きい動物になると可哀想と言われるのだ。

それはやっぱりどれだけ人に近いかということで判断されている。

つまり人間から見れば命の価値というのは人間に近いほど高く人間から遠い程低くなっている。

もうこれは仕方がない。
こういうものなのだ。
誰もこれを違うという事は出来ない。

ベジタリアンだって無意識に命に価値をつけているのだ。

僕は普通の狩猟だったら笑顔でも何も感じなかったが食べるためのものではない狩猟では何か違和感を感じた。

いわゆるトロフィーハンティングというやつだ。

要するに僕は動物を食べるか食べないかで残酷か残酷でないかを決めているようだ。

ただそれが残酷だと言っても人間は家畜や動物実験でもっと酷いことをやっている。

自分が関わってないだけで薬だって安全に使えるのは動物実験をしているからなのだ。

笑顔ではいけないという人たちは自分は数々の犠牲の上に成り立った生活をしているのに実際にやる人にはやるなという。

そもそも肉を食う時に笑顔で楽しく食う人が殆どではないだろうか。

それで笑顔で殺すなとか動物実験で安全が証明された薬を飲んでいるのに動物を殺すなというのは何ともおかしな話だ。

実際には生活の中で動物を殺して成り立ってる生活なのにそれが直接的ではないから罪悪感を感じないように出来ている。

どの動物も殺されたくて殺されている動物はいない。
この事を忘れてはいけない。

自分がクローン人間の可能性


誰しも自分とは何者なのか 何のために存在しているのか 考えた事はあると思う。

そもそも自分が自分であると確信出来るものもないし他人が思考しているという確信出来るものもない。

いわゆる哲学的ゾンビというものらしい。


哲学的ゾンビとは

哲学的ゾンビとは普通の人間であるが意識(クオリア)を持ってない人間の事である。

これは自分以外の人間が意識を持っているのか持っていないか分からないという事で認識しているのだが、 哲学っていうのは簡単な事をわざわざ難しい言葉で分かりにくくしているように思えてならない。

我思う故に我ありというぐらいなので自分が自分であるというのは分かるとおもう。

それに比べて他の人は分からないって話だ。
これ自体結論は出ないのでどうしようもないが哲学的ゾンビが存在するとは考えられない。

中にはサイコパス的な一部の例外ではいるかもしれない。
サイコパスといってもほとんどのサイコパスは普通に見えるらしい。
サイコパスの中の一部で哲学的ゾンビがいる可能性は否定できない。

では自分とは何なのだろう

他人が何を考えているのかは分からないが自分の事は自分が良く分かる。

では自分という存在は何なのか。
もし自分と全く同じ遺伝子を持つ人間が現れたらそれは自分と言えるのだろうか。

当たり前の話だがそれは自分ではない。
自分は1人しかいないわけで同じ遺伝子を持っていても2人存在している時点で個の存在ではない。

ありえない話だが全くのコピーされた人の体に今までの記憶を埋め込めばそれは同じ人間といえるのだろうか。

SFではよくある話だ。

今までの自分で無ければ自分ではないとしてしまうと厄介な話になる。

まず昨日の自分と今日の自分は全く別の存在なのだ。

細胞は少しずつ入れ替わっていて何年もすれば以前あった細胞は全て入れ替わる事になる。

そうすると自己の存在の基準が変わらない事というのは自分が自分であることの証明にはなりえないのだ。

自分のクローン人間が現れたとしてそれが自分なのかという事だがクローン人間は赤ちゃんで生まれてくるので年は違う。

また変わらないという事だけで自己の証明にはならないので自分のクローンだからといって自分という事にはならない。

ところで今クローン人間を作るのはやろうと思えば出来るみたいだが倫理的な観点から禁止されている。

クローン人間を作る目的としたら何なのだろう。
大きな目的としたら臓器移植だろう。
遺伝子が同じなのだから拒絶反応も起こる事はない。

ただそれだけはしてはいけない事だ。
もし出来るとしたら自分がいきなりクローン人間と言われて臓器を提供しろと言われても許せる人だけだろう。

もしかしたら誰でもクローン人間の可能性があるのだ。

職務質問されたい人


職務質問される人って大体怪しい見た目してたり言葉は悪いがブサイクが多いと思う。

もうそれは仕方がない事ではある。
警察官も人間なんだし見た目で怪しい人を決めるしかない。

超能力者じゃないんだから犯罪者を見通す事なんて出来ないのだ。
そう考えると美人 イケメンは人生において何かと得をするというがブサイクは何にも無いだけじゃなくて損もしてるんだなと思う。

よく違法に職務質問されたとかで騒いでそれを動画に撮ってネットに上げる奴っているがそれを見るたび相当暇なんだなと思う。

確かに職務質問されるのは気分は良くないし急いでる時はイラつく気持ちも分かる。

本当に急いでる時とかは断っても良いと思うんだが違法って叫びたがる連中の多くは別に急いでるわけでもないだろう。

逆に自分から無駄に時間を引き延ばしているように見える。
何か犯罪をしているなら分かるがそれだったら大人しく捕まってくれと思う。

警察官と喋りたいだけ

犯罪もしてないし急いでるわけでもないのにわざと職質は任意とか法律の事とかを急に語り出す人たちは要するにただ喋りたいとか自分の知識を披露したいだけなんだろうなと思う。

普通の一般の人だったら職務質問が安全を保つ上で必要な事も分かってるし警察官と法律について語り合いたい人なんていないと思う。

たぶんそういう奴って現実世界では喋る相手もいないんだろうな。
良く分かるよ。

だって喋り方めちゃくちゃ気持ち悪いし妙に早口でいきなり任意ガーとか法律的にはとか語り出すんだから。

いわゆる気持ち悪いタイプのオタクだな。
まあ見た目がヤバイから警察も職務質問してるのだからあながち間違ってもいないのだが。

わざと怪しい行動をしている奴もいる。

youtubeでたまに見るのだがばんかけとかふざけた題名で警護車両とかパトカーを追いかけ回す頭の飛んでいる奴がいる。

それをやるのは自由だし職務質問されるのも自分から好きでやっていそうなのでどうでも良いがわざわざ警察の目を引くような事をやってかわいそうと思ってしまう。

やっている事は不良中学生と何にも変わらないのだ。
言ってみればどれだけ髪を染めれば怒られるかちょっとずつ試している中学生なのだ。

それを警察に対してやっている。
精神的には全く大人になりきれていない。
少なくとも落ち着いた尊敬の出来る大人とは言えないのだ。

そんな顔も悪いくせに頭も悪いという人たちが精神的に大人になりきれない人たちがいるのだ。